電車内の床をトコトコと歩く全身茶色の虫に気づいた。
「げ、カメムシ。」
総じてみなが思うあの感情。
小さい頃、人を見た目で判断するなと教えられた。
ではムシは見た目で判断していいのだろうか。
些細なことが駆け巡る。
(ところでこれ、絶対誰か踏むだろ・・・)
もし踏まれたら、車内があの匂いで充満するのか。
昼時とはいえ、なかなか車内に人はいる。
彼よ、確率的に生き残るのはほぼ不可能だ。
「お前はもう・・」
どうする?
まるで進撃の巨人だらけの中、たった一人(人じゃないけど)駆け抜けている彼がなんだかかわいそうにも感じてきた。
駅に着いたら足でそっと外に蹴り出そうか。
待て待て、そんな動きをしたら数名には気づかれるだろう。
「あの人、大丈夫?いまカメムシ蹴ったよな。くさそうじゃない?」
昼間なのになぜか電車に乗っている女子高生たちにはそんなことを言われそうだ。
もし蹴り出すのに失敗でもしようものなら、カメムシを怒らせ、車内を臭くさせた主犯格になる。
おい、どうする?
緊急脳内会議がはじまった。
「そういえば君は部活サッカーだったよな?」
「は、はい。いや、でもPKは大の苦手でした。」
「・・・ダメじゃん。」
結論は「ちょっと待て」。
ここは目を離さず監視を継続しよう。
人間が慌ただしく行き交う電車内を、ギリギリで踏まれない彼。
なんだかブラジルのサッカー選手のように華麗なフェイントでかわしているかのよう。
びっくりするぐらい、絶妙に踏まれない。
トコトコ歩いている。
まさにBrilliant steps。
涼しい顔してかわしているけど、本当はヒヤヒヤなのかもしれない。
まったくの想像だ。
フェイスが茶色だけにそこは読みようがない。
人間の足踏みを嘲笑うかのように軽快にすり抜ける様。
実におもしろい。
しかし、幕切れは突然やってくる。
次の駅に到着し「席空いてたわ〜ラッキー」と言わんばかりに慌ただしく席に座ったおばちゃんに、ついに踏まれた。
ちなみにそのおばちゃん。
彼を踏んだことにまったく気づいていない。
万事休す。
見知らぬおばちゃんの靴の裏で彼は生涯を閉じたのか。
人生とは儚いものだ。
まもなく車内はあの匂いが漂い、ザワザワし出すだろう。
そもそもここまで踏まれずにいたことが奇跡に近いんだ。
軽く黙祷を捧げ、静かに席を立とうとしたその瞬間。
ほんの少し浮いていたおばちゃんのつま先からヒョコヒョコ出てきたではないか。
何事もなかったかのように涼しげな感じで。
生きてたんかい!
おいおい、よかった。
ぼくはだんだんどんな感情で彼を観ているのかよくわからなってきた。
ほっとしたのか、いつの間にかぼくは寝落ちしていた。
目が覚めたら、どこにも彼はいなかった。
ちょっとイヤな予感がして、自分の足元を覗き込んだ。
もちろんいなかったけど。
夢だったのか。
いや、リアルだ。
なぜなら、ほんのりとあの匂いが車内にしていたように感じたから。
やはり最後は誰かに踏まれたのだろうか。
分からない。
でも、今もどこかで軽やかにステップを踏んでいる気がどこかする。